×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
常々、テレビやドラマで観る、ひめゆり学徒隊の皆さんの話。
若い娘さんが可哀そうに!とか、戦争の犠牲者なのね?とか、
戦争=悪 日本軍=悪・・のような一方的な取り上げ方に
私はどうも、違和感を感じていて・・・。
今回、『日本海軍のこころ』を読むにあたり、
すっと心に抵抗なく入ってくる様子が書かれていたので、
ここに紹介しようと思う。
---------------------------『日本海軍のこころ』より引用
自己弁護と思われては大変気の毒なので、
太田司令官の電報を意義を先に書いておく。
沖縄県民は、このように戦ったのである。
どうか県民に対し、後世特別のご高配をたまわらんことを。
若い娘さんが可哀そうに!とか、戦争の犠牲者なのね?とか、
戦争=悪 日本軍=悪・・のような一方的な取り上げ方に
私はどうも、違和感を感じていて・・・。
今回、『日本海軍のこころ』を読むにあたり、
すっと心に抵抗なく入ってくる様子が書かれていたので、
ここに紹介しようと思う。
---------------------------『日本海軍のこころ』より引用
自己弁護と思われては大変気の毒なので、
太田司令官の電報を意義を先に書いておく。
沖縄県民は、このように戦ったのである。
どうか県民に対し、後世特別のご高配をたまわらんことを。
太田司令官は、やむなく撤退を決意、敵に利用されないよう、
オロクの兵器を全部爆破し、島尻に退いた。
島尻に到着してみると、何ということか、
その撤退命令は誤報であったことが判明した。
オロクに戻らねばならぬ。と言って、兵器を破壊したオロクに戻っても、
戦う方法がなかった。どうすればいいのか。
太田司令官は、海軍の名誉のため、あえてオロクに戻る決心を固め、
女子勤務員などの軍人以外のものには、帰郷を命じた。
オロクに戻れば、100%の死が待っている。それを誰もが知りながら、
死のうと決心した。そして、再び雨中を泥と戦い、来た道をとって返し、
まるで廃墟のようなオロクに帰り着いた。
そこへ、どうしたことか、泥まみれになった、帰郷を命じられたはずの
女子勤務員たちが、司令部隊に駆け込んできた。
「私たちも連れて行って下さい。皆さんと一緒に、私たちも戦って死にます」
太田司令官は、黙っていた。
しかし姿勢を正して、深く、深くうなづいた。
自決前夜、太田司令官は海軍次官あて、次の電報を打った。
「沖縄県民の実情については、県知事から報告されるべきと思うが、
県にはすでに通信力がなく、32軍(沖縄県)もまた通信の余力がないと
認められるので、別に県知事から頼まれたのではないが、
現状を見過ごすに忍びないから、これに代わってお知らせする。
沖縄に敵が来攻していらい、陸海軍は防衛戦党に専念して、
県民についてはほとんど顧みる余裕もなかった。
しかし、私の承知するかぎりでは、県民は青壮年の全部を防衛招集にささげ、
残るのは老幼女子だけとなり、これらが、休む間もない砲爆撃のために、
家と財産の全てを焼かれ、着の身着のままで、
ようやく軍の作戦に差し支えない場所の小さな防空壕に避難している。
その上に容赦なく砲爆撃が加えられ、また風雨に曝され、
乏しい生活に甘んじている。
しかも、若い婦人は率先して軍に身を捧げ、看護、炊事はもとより、
砲弾運び、挺身斬り込みにすらにすら、参加を申し出るものがいる。
敵が来たら、しょせん老人、子供は殺されるだろう。
婦女子は後方に運び去られて(敵の)毒牙(強姦)に掛けられるだろうと、
親子が行きながら別れて、娘を軍の営門に捨てる親さえいる。
看護婦の場合、軍が移動するとき、衛生兵は既に出発したと言うのに、
身よりのない重傷者を助けて、そこに踏みとどまるものもある。
沖縄県民の考えはまことに真面目であって、
一時の感情に走ったものとは到底思われない。
さらに軍が作戦の転換をして、遙か遠方の地に住民の居住区を指定しても、
夜のうちに黙々として雨の中を移動する。
輸送力がまったくないので、徒歩である。
これを要するに、陸海軍が沖縄に来てから、
終始一貫して勤労をもって奉仕し、一方では物資節約を強要された。
彼らは、御奉公の真心を胸に抱きながら、これに堪えて来た。
しかるにかれらの献身も報いられず、沖縄戦も末期の様相を呈して来た。
おそらく、彼らの土地沖縄は、山野の形容を改めるほど破壊され、
一木一草も残さず焦土と化すだろう。
糧食も、6月一杯を支えるだけしかないと言う。
沖縄県民は、このように戦ったのである。
どうか県民に対し、後世特別のご高配をたまわらんことを。」
沖縄県民に対する海軍の深い友情と理解と敬意を、
これほど良く言い表したものはないだろう。
--------------------------------------引用ここまで
戦争に対する考え方は、何に関わったか?でずいぶん変わる。
実際に戦争を体験した方でも、
どんな上司の元で戦ったか?
捕虜生活を送ったか?
等々、置かれた環境でだいぶん違ってくると思う。
だからこそ、『大儀』を忘れてはいかんのだろうね。
命を掛けるだけの大儀があったからこその、戦争の筈なのだから。
まぁ・・、言うのは簡単なのだけど。
オロクの兵器を全部爆破し、島尻に退いた。
島尻に到着してみると、何ということか、
その撤退命令は誤報であったことが判明した。
オロクに戻らねばならぬ。と言って、兵器を破壊したオロクに戻っても、
戦う方法がなかった。どうすればいいのか。
太田司令官は、海軍の名誉のため、あえてオロクに戻る決心を固め、
女子勤務員などの軍人以外のものには、帰郷を命じた。
オロクに戻れば、100%の死が待っている。それを誰もが知りながら、
死のうと決心した。そして、再び雨中を泥と戦い、来た道をとって返し、
まるで廃墟のようなオロクに帰り着いた。
そこへ、どうしたことか、泥まみれになった、帰郷を命じられたはずの
女子勤務員たちが、司令部隊に駆け込んできた。
「私たちも連れて行って下さい。皆さんと一緒に、私たちも戦って死にます」
太田司令官は、黙っていた。
しかし姿勢を正して、深く、深くうなづいた。
自決前夜、太田司令官は海軍次官あて、次の電報を打った。
「沖縄県民の実情については、県知事から報告されるべきと思うが、
県にはすでに通信力がなく、32軍(沖縄県)もまた通信の余力がないと
認められるので、別に県知事から頼まれたのではないが、
現状を見過ごすに忍びないから、これに代わってお知らせする。
沖縄に敵が来攻していらい、陸海軍は防衛戦党に専念して、
県民についてはほとんど顧みる余裕もなかった。
しかし、私の承知するかぎりでは、県民は青壮年の全部を防衛招集にささげ、
残るのは老幼女子だけとなり、これらが、休む間もない砲爆撃のために、
家と財産の全てを焼かれ、着の身着のままで、
ようやく軍の作戦に差し支えない場所の小さな防空壕に避難している。
その上に容赦なく砲爆撃が加えられ、また風雨に曝され、
乏しい生活に甘んじている。
しかも、若い婦人は率先して軍に身を捧げ、看護、炊事はもとより、
砲弾運び、挺身斬り込みにすらにすら、参加を申し出るものがいる。
敵が来たら、しょせん老人、子供は殺されるだろう。
婦女子は後方に運び去られて(敵の)毒牙(強姦)に掛けられるだろうと、
親子が行きながら別れて、娘を軍の営門に捨てる親さえいる。
看護婦の場合、軍が移動するとき、衛生兵は既に出発したと言うのに、
身よりのない重傷者を助けて、そこに踏みとどまるものもある。
沖縄県民の考えはまことに真面目であって、
一時の感情に走ったものとは到底思われない。
さらに軍が作戦の転換をして、遙か遠方の地に住民の居住区を指定しても、
夜のうちに黙々として雨の中を移動する。
輸送力がまったくないので、徒歩である。
これを要するに、陸海軍が沖縄に来てから、
終始一貫して勤労をもって奉仕し、一方では物資節約を強要された。
彼らは、御奉公の真心を胸に抱きながら、これに堪えて来た。
しかるにかれらの献身も報いられず、沖縄戦も末期の様相を呈して来た。
おそらく、彼らの土地沖縄は、山野の形容を改めるほど破壊され、
一木一草も残さず焦土と化すだろう。
糧食も、6月一杯を支えるだけしかないと言う。
沖縄県民は、このように戦ったのである。
どうか県民に対し、後世特別のご高配をたまわらんことを。」
沖縄県民に対する海軍の深い友情と理解と敬意を、
これほど良く言い表したものはないだろう。
--------------------------------------引用ここまで
戦争に対する考え方は、何に関わったか?でずいぶん変わる。
実際に戦争を体験した方でも、
どんな上司の元で戦ったか?
捕虜生活を送ったか?
等々、置かれた環境でだいぶん違ってくると思う。
だからこそ、『大儀』を忘れてはいかんのだろうね。
命を掛けるだけの大儀があったからこその、戦争の筈なのだから。
まぁ・・、言うのは簡単なのだけど。
PR
カレンダー
最新記事
(05/15)
(05/11)
(07/04)
(11/01)
(10/24)
(10/01)
(09/22)
リンク
ブログ内検索
プロフィール
HN:
しまねこ
性別:
女性
自己紹介:
こんにちは。しまねこっす。
アーカイブ
アクセス解析