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もう一本ねずきちの ひとりごとさんから引っ張らせて貰います。
前回の阪神大震災の時の話なのですが、
この震災で親を亡くした子供たち30名が、
翌96年ポーランドに招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。
わし、この話を知りませんでした。
ポーランドの孤児達を日本に避難させた・・と言う話は知っていましたが、
阪神大震災で被災した子供たちの事は始めて聞きました。
(ご存じの方はすみませんスルーしてください)
これはどういう事かと言うと・・・
以下引用----------------------------
前回の阪神大震災の時の話なのですが、
この震災で親を亡くした子供たち30名が、
翌96年ポーランドに招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。
わし、この話を知りませんでした。
ポーランドの孤児達を日本に避難させた・・と言う話は知っていましたが、
阪神大震災で被災した子供たちの事は始めて聞きました。
(ご存じの方はすみませんスルーしてください)
これはどういう事かと言うと・・・
以下引用----------------------------
1919年、ポーランドがロシアからようやく独立したとき、
ロシア国内は革命、反革命勢力が争う内戦状態にありました。
極東地域には政治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、
十数万人のポーランド人がいたといわれています。
翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に戦争が始まり、
孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可能となった。
救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことごとく拒否された。
窮余の一策として、日本政府に援助を要請した。
救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は1920年6月に来日し、
外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請した。
独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない。
ふつうならありえない。
しかし女史の嘆願は、外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、
わずか17日後には、シベリア孤児救済が決定されたのです。
合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、
第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船により
直接祖国ポーランドに送り返されました。
習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、
ポーランド人の付添人をつけのがよいと考え、
日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーランド人の大人を
一緒に招くという手厚い配慮までしています。
日本に到着したポーランド孤児たちの回想・・・・・
ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒された。
そのあと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入れて貰って感激した。
特別に痩せていた女の子は、日本人の医者が心配して、
毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれた。
その栄養剤が大変おいしかったので
一晩で仲間に全部食べられてしまって悔しかった。。。
神戸港からの出発では、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、
大勢の見送人たちは、子供たちの幸せを祈りながら、
涙ながらに船が見えなくなるまで手を振った。
子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、
毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、
子供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたといいます。
その手の温かさを忘れない、と一人の孤児が回想している。。。。
こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウコフスキ少年がいた。
彼は、17歳の青年となった1928年、
シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となった。
会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設けられ、
30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたといいます。
1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接すると、
イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定。
ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、
イエジ青年の会にもナチス当局の監視の目が光り始めた。
イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、
多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。
急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、
この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、
孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、
「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。
イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、
ドイツ兵たちは呆気にとられ、
「大変失礼しました」といって直ちに引き上げた。
当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども
日本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。
日本大使館は、この三国同盟を最大限に活用して、
イエジ部隊を幾度となく庇護したのである。
1995年10月、ポーランド大使を務めていた兵藤長雄氏は、
8名の孤児を公邸に招待した。
皆80歳以上のご高齢です。
一人のご婦人は体の衰弱が激しく、
お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりついた。
そのご婦人は、こう語った。
「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。
そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。
しかしもうそれは叶えられません。
だけど大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、
這ってでも、這ってでも伺いたいと思いました。
なぜって、ここは小さな日本の領土だって聞きましたもの。
今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、
もう思い残すことはありません。」
そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、
「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」
と題した礼状の中で次のように述べています。
------------------------------------
日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。
日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。
しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、
心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じて
その恩を忘れることはない。
われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、
孤児たちの服装の惨めなのを見て、
自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、
髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとって
ポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。
しばしばあった。・・・
ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、
われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。
日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、
ポーランドはもとより米国でも広く知られています。
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、
最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えしたい。
-------------------------引用ここまで『兵藤長雄先生』より
トルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件の時も、和歌山県の漁村の皆さんが
自分たちが食べるモノもないのに、最後の鶏までしめて
救助された人々を助けたんですよね。
その恩を、トルコの人たちは返してくださった。
1980年9月におきたイラン・イラク戦争で、救援の飛行機も出せずに
ただおろおろするばかりの日本政府。
そこへ一機のトルコの救援機がテヘランに飛んでくれた。
あの時の日本人の驚きは大変なものでした。
私自身も、なんでトルコが?不思議に思ったものです。
日本は素晴らしい国。
それが、欲に目が眩んだ政治家や小狡い反日の輩に踏みつぶされようとしている。
草の根には草の意地がある。
決して、自分の国を諦めないで戦って行きたいものです。
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