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一昨日、ポーランドと日本の間に存在した『善意の架け橋』。
それは同名の、一冊の本にもなっている。
さっそく図書館で借り出して来て読んでいる。
まだ半分だけれども、半分読んだだけでも、ポーランドと言う国と
遠く遠く離れた日本と言う国との、深い縁と言うものに驚いた。
そして、ボロボロ泣いてしまいました。
『ポーランド人が日本びいきな理由』
ポーランドには日本語を教えている日本人がいらっしゃるが、
生徒はお年寄りが数人。
それでも生徒さんたちは熱心で、10年も通い続けていらっしゃるとか。
しかも彼らは、
「自分が死んだら日本語の教科書を柩に一緒に入れてくれ」
と遺言するそうだ。
なんだか、片思いされてる気分で、ジーンと来てしまいます。
『善意の架け橋』の著者、兵藤先生も同じような事を仰っておられます。
日本は、目先の利益ばかりを追いかけて、アメリカだの中国だのと
躍起になっておりますが、もっともっと広く、そしてゆっくりと
諸外国との付き合いを考えた方が良いです。
利益と言うなら、100年後に戻ってくる投資だってあるんですよね。
それは同名の、一冊の本にもなっている。
さっそく図書館で借り出して来て読んでいる。
まだ半分だけれども、半分読んだだけでも、ポーランドと言う国と
遠く遠く離れた日本と言う国との、深い縁と言うものに驚いた。
そして、ボロボロ泣いてしまいました。
『ポーランド人が日本びいきな理由』
ポーランドには日本語を教えている日本人がいらっしゃるが、
生徒はお年寄りが数人。
それでも生徒さんたちは熱心で、10年も通い続けていらっしゃるとか。
しかも彼らは、
「自分が死んだら日本語の教科書を柩に一緒に入れてくれ」
と遺言するそうだ。
なんだか、片思いされてる気分で、ジーンと来てしまいます。
『善意の架け橋』の著者、兵藤先生も同じような事を仰っておられます。
日本は、目先の利益ばかりを追いかけて、アメリカだの中国だのと
躍起になっておりますが、もっともっと広く、そしてゆっくりと
諸外国との付き合いを考えた方が良いです。
利益と言うなら、100年後に戻ってくる投資だってあるんですよね。
杉原千畝(ちうね)領事が、迫害される数千人ものユダヤ人を
助けた事は有名だが、他にもいろいろな話があった。
-------------------以下一部抜粋引用する
杉原千畝(ちうね)領事が救った6,000人の命
9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に
乗り込んだ。ここにもビザを求めて何人かの人が来ていた。
窓から身を乗り出して杉原はビザを書き続けた。ついに汽車が走り出す。
走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは
「許してください、私にはもう書けない。
みなさんのご無事を祈っています。」
夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。
茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼き付いています。
「バンザイ、ニッポン」
誰かが叫びました。夫はビザを渡す時、一人一人に
「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。
外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。
夫への感謝が祖国日本への感謝につながってくれる事を期待していたのでしょう。
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
列車と並んで泣きながら走ってきた人が、
私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。
敗戦後、日本に戻った杉原は、外務省を退職させられた。
占領軍総司令部から各省の職員を減らすようにという命令が出ていたのだが、
「やはり命令に背いてビザを出した事が問題にされているのか」とも思った。
杉原は黙って外務省を去った。
その杉原にイスラエル大使館から電話があったのは、
昭和43年8月の事だった。杉原に救われた一人、
ニシュリという人が参事官として在日大使館に勤務していた。
ユダヤ人達は28年間も杉原を探していて、ようやく見つけたのであった。
ニシュリは、杉原に会うと、一枚のぼろぼろになった紙を見せた。
杉原からもらったビザである。そして杉原の手をかたく握って、涙を流した。
2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上)
当時のハルピンでは、白系ロシア人とユダヤ人の対立が深刻化しており、
治安の元締めである機関長がユダヤ人大会に出席しては、
ロシア人過激分子を刺激して、不祥事を引き起こす恐れがあったからだ。
しかし、樋口は構わず出席し、カウフマン博士から求められる
来賓としての挨拶をした。曰く、
『ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として
法律上同胞であるべき人々を追放するという。
いったい、どこへ追放しようというのか。
追放せんとするならば、その行先をちゃんと明示し、
あらかじめそれを準備すべきである。
とうぜんとるべき処置を怠って、追放しようとするのは
刃をくわえざる、虐殺にひとしい行為と、断じなければならない。
私は個人として、このような行為に怒りを覚え、
心から憎まずにはいられない。
ユダヤ人を追放するまえに、
彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ!
そしてまた、祖国をあたえなければならないのだ。』
演説が終わると、すさまじい歓声がおこり、熱狂した青年が
壇上に駆け上がって、樋口の前にひざまずいて号泣し始めた。
協会の幹部達も感動の色を浮かべ、つぎつぎに握手を求めてきた。
友好の象徴、日本美術・技術センター
シェンスキの死後、そのコレクションは一時クラコフ国立
博物館に所蔵されていたが、ナチス占領下にたまたまその一部が公開され、
それに衝撃を受けたのがクラコフ美術大学生アンジェイ・ワイダだった。
ワイダ氏はその後、ポーランド映画界の巨匠となり、
87年に京都財団から受賞した京都賞の賞金全額を寄付して、
ヤシェンスキ・コレクションのための独自の美術館建設を提唱した。
ワイダ氏の呼びかけにポーランドと日本の多くの人々が協力して
94年に完成したのが日本美術・技術センターである。
ヤシェンスキは「北斎漫画」からとった「マンガ」を
ミドルネームにしていた機縁で、
このセンターは「マンガ」館と愛称されている。
筆者がセンターを訪れたときは、
かなりの数の青年たちが日本の掛け軸の展示を見ていた。
喫茶室では何組かの若いカップルが日本茶を飲みながら、
会話を楽しんでいる。喫茶室の巨大なガラス戸からは、
ヴィスワ川の向こう側に壮大なヴァヴェル城が望める。
日本とポーランドの友好の象徴であるこのセンターから、
ポーランド民族の独立と統合の象徴たるヴァヴァル城を見上げつつ、
私は自由ポーランドの繁栄を祈った。
助けた事は有名だが、他にもいろいろな話があった。
-------------------以下一部抜粋引用する
杉原千畝(ちうね)領事が救った6,000人の命
9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に
乗り込んだ。ここにもビザを求めて何人かの人が来ていた。
窓から身を乗り出して杉原はビザを書き続けた。ついに汽車が走り出す。
走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは
「許してください、私にはもう書けない。
みなさんのご無事を祈っています。」
夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。
茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼き付いています。
「バンザイ、ニッポン」
誰かが叫びました。夫はビザを渡す時、一人一人に
「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。
外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。
夫への感謝が祖国日本への感謝につながってくれる事を期待していたのでしょう。
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
列車と並んで泣きながら走ってきた人が、
私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。
敗戦後、日本に戻った杉原は、外務省を退職させられた。
占領軍総司令部から各省の職員を減らすようにという命令が出ていたのだが、
「やはり命令に背いてビザを出した事が問題にされているのか」とも思った。
杉原は黙って外務省を去った。
その杉原にイスラエル大使館から電話があったのは、
昭和43年8月の事だった。杉原に救われた一人、
ニシュリという人が参事官として在日大使館に勤務していた。
ユダヤ人達は28年間も杉原を探していて、ようやく見つけたのであった。
ニシュリは、杉原に会うと、一枚のぼろぼろになった紙を見せた。
杉原からもらったビザである。そして杉原の手をかたく握って、涙を流した。
2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上)
当時のハルピンでは、白系ロシア人とユダヤ人の対立が深刻化しており、
治安の元締めである機関長がユダヤ人大会に出席しては、
ロシア人過激分子を刺激して、不祥事を引き起こす恐れがあったからだ。
しかし、樋口は構わず出席し、カウフマン博士から求められる
来賓としての挨拶をした。曰く、
『ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として
法律上同胞であるべき人々を追放するという。
いったい、どこへ追放しようというのか。
追放せんとするならば、その行先をちゃんと明示し、
あらかじめそれを準備すべきである。
とうぜんとるべき処置を怠って、追放しようとするのは
刃をくわえざる、虐殺にひとしい行為と、断じなければならない。
私は個人として、このような行為に怒りを覚え、
心から憎まずにはいられない。
ユダヤ人を追放するまえに、
彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ!
そしてまた、祖国をあたえなければならないのだ。』
演説が終わると、すさまじい歓声がおこり、熱狂した青年が
壇上に駆け上がって、樋口の前にひざまずいて号泣し始めた。
協会の幹部達も感動の色を浮かべ、つぎつぎに握手を求めてきた。
友好の象徴、日本美術・技術センター
シェンスキの死後、そのコレクションは一時クラコフ国立
博物館に所蔵されていたが、ナチス占領下にたまたまその一部が公開され、
それに衝撃を受けたのがクラコフ美術大学生アンジェイ・ワイダだった。
ワイダ氏はその後、ポーランド映画界の巨匠となり、
87年に京都財団から受賞した京都賞の賞金全額を寄付して、
ヤシェンスキ・コレクションのための独自の美術館建設を提唱した。
ワイダ氏の呼びかけにポーランドと日本の多くの人々が協力して
94年に完成したのが日本美術・技術センターである。
ヤシェンスキは「北斎漫画」からとった「マンガ」を
ミドルネームにしていた機縁で、
このセンターは「マンガ」館と愛称されている。
筆者がセンターを訪れたときは、
かなりの数の青年たちが日本の掛け軸の展示を見ていた。
喫茶室では何組かの若いカップルが日本茶を飲みながら、
会話を楽しんでいる。喫茶室の巨大なガラス戸からは、
ヴィスワ川の向こう側に壮大なヴァヴェル城が望める。
日本とポーランドの友好の象徴であるこのセンターから、
ポーランド民族の独立と統合の象徴たるヴァヴァル城を見上げつつ、
私は自由ポーランドの繁栄を祈った。
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