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第二次世界大戦が始まったばかりの頃、
ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と
英米蘭の連合艦隊一五隻との間で行われた海戦で、
英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」が
撃沈され、乗組員四百数十名は海に投げ出されました。
彼らは漂流を続け、生存の限界に達していた頃、
偶然この海域を航行していた日本海軍の駆逐艦
「雷(いかづち)」に発見されたのです。
『酒たまねぎやホームページ』さんから
またもや良い話を引用させて戴きます。
詳細は本店でどうぞ。
----------------------以下抜粋簡易引用
ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と
英米蘭の連合艦隊一五隻との間で行われた海戦で、
英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」が
撃沈され、乗組員四百数十名は海に投げ出されました。
彼らは漂流を続け、生存の限界に達していた頃、
偶然この海域を航行していた日本海軍の駆逐艦
「雷(いかづち)」に発見されたのです。
『酒たまねぎやホームページ』さんから
またもや良い話を引用させて戴きます。
詳細は本店でどうぞ。
----------------------以下抜粋簡易引用
この時英国海軍中尉だったフォール卿は、
「日本人は非情」という先入観を持っていたため、
機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと覚悟しました。
ところが、駆逐艦「雷」は即座に
「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、
漂流者全員422名を救助したのです。
艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、
英語で健闘を称え、
「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」
とスピーチしたのです。
そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。
(一九九八年四月二九日付「英タイムズ紙」フォール卿投稿文より)
敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかも知れない危険な海域で、
自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助したのだった。
もちろん艦長の英断であった。
フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、
戦後その消息を捜し続けてきた。そして、昭和六二年、
工藤中佐が八年前に他界していた事を知った。
しかし、自身の齢も八十四歳を数えるようになってきたため、
ついに意を決し、「人生の締めくくり」として来日したのである。
フォール卿の来日を知った外務省や海上幕僚部は、
観艦式に卿を招いた。それも海上自衛隊最精鋭の
艦隊である第一護衛隊群に所属する四代目「いかづち」にである。
フォール卿は迎えいられた「いかずち」の士官室にて、
同席した方々に戦時中を振り返り、そして、
「自分や、戦友の命を救ってくれた『雷』艦長御遺族を始め、
関係者に会ってお礼が言いたい。できれば
工藤中佐の墓前に自分が著した書を捧げたい」と語っている。
観艦式航海中のフォール卿は、
海上自衛隊の指揮統率能力の高さに感嘆し、また後部の
飛行甲板で音楽隊が演奏の初めに英国国歌を演奏した時、
不自由な身体を押して直立不動の姿勢をとり、
その後姿に何度も同行した者たちを
「英国紳士とはかくなるものか」と感嘆させたそうです。
フォール卿は「いかづち」が帰港し、
岸壁から外務省が手配した車に乗り込むまでの間に
要所に配置された自衛隊の下士官にたいしても、
不自由な身体でありながら、いちいち立ち止まり、彼らに、
「ありがとうございました」とたどたどしい日本語でお礼を言い、
丁寧にお辞儀をされたそうである。
救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船
「オプテンノート」に引き渡された。
フォール卿はその後どのような捕虜生活を
送ったのであろうか。以下はそのフォール卿自身の証言です。
「オランダの病院船からマサッサルの捕虜収容所まで
徒歩で行進しました。路上でみた住民たちはかなり親日的で、
軒ごとに日章旗が掲揚されていました。それに反して、
彼らは自分たちをかなり敵愾心をもって見ているようでした。
捕虜収容所はオランダ軍の施設でした。当初は鉄条網もなく、
さほどの束縛もありませんでした。土間に寝起きさせられましたが、
後に、小さなベットと蚊屋が支給されました。
ここには、英海軍、オランダ海軍、少数の米海軍
(撃沈された潜水艦乗組員)の士官を含め
兵卒もまじって収容されていました。
ある時、オランダ海軍士官が脱走を試みました。
ところが、買収したはずのインドネシア人が日本軍に通報し、
それは失敗に終わったのです。
これ以降、自分は英国海軍の上級士官から
二度とこういう行為はするなと言われました。
日本兵はわれわれが勉強することを許してくれました。
そのため、私はこの環境を利用してオランダ語、マレー語、
インドネシア語を学んだのです。
このことは戦後自分の外交官活動に大変役立ちました。
----------------------------引用ここまで
この話には後日談がある。
残念ながら、まったく噴飯物の日本軍人に話である。
詳細は『工藤俊作』で読めます。
「日本人は非情」という先入観を持っていたため、
機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと覚悟しました。
ところが、駆逐艦「雷」は即座に
「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、
漂流者全員422名を救助したのです。
艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、
英語で健闘を称え、
「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」
とスピーチしたのです。
そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。
(一九九八年四月二九日付「英タイムズ紙」フォール卿投稿文より)
敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかも知れない危険な海域で、
自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助したのだった。
もちろん艦長の英断であった。
フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、
戦後その消息を捜し続けてきた。そして、昭和六二年、
工藤中佐が八年前に他界していた事を知った。
しかし、自身の齢も八十四歳を数えるようになってきたため、
ついに意を決し、「人生の締めくくり」として来日したのである。
フォール卿の来日を知った外務省や海上幕僚部は、
観艦式に卿を招いた。それも海上自衛隊最精鋭の
艦隊である第一護衛隊群に所属する四代目「いかづち」にである。
フォール卿は迎えいられた「いかずち」の士官室にて、
同席した方々に戦時中を振り返り、そして、
「自分や、戦友の命を救ってくれた『雷』艦長御遺族を始め、
関係者に会ってお礼が言いたい。できれば
工藤中佐の墓前に自分が著した書を捧げたい」と語っている。
観艦式航海中のフォール卿は、
海上自衛隊の指揮統率能力の高さに感嘆し、また後部の
飛行甲板で音楽隊が演奏の初めに英国国歌を演奏した時、
不自由な身体を押して直立不動の姿勢をとり、
その後姿に何度も同行した者たちを
「英国紳士とはかくなるものか」と感嘆させたそうです。
フォール卿は「いかづち」が帰港し、
岸壁から外務省が手配した車に乗り込むまでの間に
要所に配置された自衛隊の下士官にたいしても、
不自由な身体でありながら、いちいち立ち止まり、彼らに、
「ありがとうございました」とたどたどしい日本語でお礼を言い、
丁寧にお辞儀をされたそうである。
救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船
「オプテンノート」に引き渡された。
フォール卿はその後どのような捕虜生活を
送ったのであろうか。以下はそのフォール卿自身の証言です。
「オランダの病院船からマサッサルの捕虜収容所まで
徒歩で行進しました。路上でみた住民たちはかなり親日的で、
軒ごとに日章旗が掲揚されていました。それに反して、
彼らは自分たちをかなり敵愾心をもって見ているようでした。
捕虜収容所はオランダ軍の施設でした。当初は鉄条網もなく、
さほどの束縛もありませんでした。土間に寝起きさせられましたが、
後に、小さなベットと蚊屋が支給されました。
ここには、英海軍、オランダ海軍、少数の米海軍
(撃沈された潜水艦乗組員)の士官を含め
兵卒もまじって収容されていました。
ある時、オランダ海軍士官が脱走を試みました。
ところが、買収したはずのインドネシア人が日本軍に通報し、
それは失敗に終わったのです。
これ以降、自分は英国海軍の上級士官から
二度とこういう行為はするなと言われました。
日本兵はわれわれが勉強することを許してくれました。
そのため、私はこの環境を利用してオランダ語、マレー語、
インドネシア語を学んだのです。
このことは戦後自分の外交官活動に大変役立ちました。
----------------------------引用ここまで
この話には後日談がある。
残念ながら、まったく噴飯物の日本軍人に話である。
詳細は『工藤俊作』で読めます。
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