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この頃やっと、よそのBlogや2chで自分んちの名前を見ても
珈琲を吹かなくなりますた。w
でも、赤面はしますね。あはあは。
ご紹介頂いてる皆さん、どうもありがとう。<(_ _)>
拡散拡散♪
先日、【日本の底力】さんとこのLinkから
久しぶりにJOGさんの記事に嵌ってしまって。
鬱陶しい話しばかりが続いたので、お清めに先帝のお話しを。
▽
復興へ 3万3千キロのご巡幸
1.石のひとつでも投げられりゃあいいんだ
「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、
旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを
日本人に知らしめてやる必要がある。
神さまじゃなくて人間だ、ということをね。
それが生きた民主主義の教育というものだよ。」
昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、
占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。
しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものだった。
昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。
行程は3万3千キロ、総日数165日。
各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。
イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、
天皇の声望はほとんど衰えていない。
各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。
何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。
イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、
長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。
それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。」
昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、
敗戦直後、昭和20年10月であった。
宮内府次長加藤進氏に次のように指示された。
『この戦争により先祖からの領土を失ひ、
国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。
この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。
しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、
また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。
このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。
ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、
自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、
健康とか何とかはまつたく考へることなくやってほしい。
宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。』
御巡幸の打診を受けた占領軍総司令部は、
冒頭で紹介したような魂胆もあって、許可した。
3.「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」
昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・川崎工場であった。
食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産していたが、空襲で70%の設備が破壊され、
社員は必死で復旧に努めていた。
一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、
「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。
感極まって泣いているものも多かった。
案内していた森社長は、天皇が身近な質問ばかりされるので、
宮中で安楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、
と急に深い親しみを感じた。
二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。
大空襲で一面、焼け野原である。
新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ、
自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こった。
昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、
車道にまでなだれこんだ。
これ以降、巡幸される先々で、このような光景が繰り返された。
8.子らに幸あれ
昭和24年5月18日から6月10日にかけては、
九州全県を巡幸された。
5月22日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通寺には、
40余名の戦災孤児のための洗心寮があった。
孤児たちの中に、位牌を二つ胸に抱きしめていた女の子がいた。
昭和天皇は、その女の子に近づかれて、
「お父さん、お母さん?」
と尋ねられた。
「はい、これは父と母の位牌です」
とはっきり返事をする女の子に、さらに
「どこで?」。
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。
母は引き上げの途中病のためになくなりました。」
天皇は悲しそうな顔で
「お寂しい」
と言われると、女の子は首を横に振って、
「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。
仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にいったら、
きっともう一度会うことができるのです。・・・」
昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫でながら、
「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」
と言われた。数滴の涙が畳の上に落ちた。
「お父さん」、
女の子は小さな声で昭和天皇を呼んだ。
みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ
9.天皇陛下さまを怨んだこともありました
因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。
昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。
「どなたが戦死をされたのか」
「息子でございます。たった一人の息子でございました」
声を詰まらせながら返事をする老婆に
「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、
息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。
・・・天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。
息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」
老婆は泣き伏してしまった。
じっと耳を傾けていた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。
引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。
「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」
とお言葉をかけられた。
一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。
「天皇陛下さまを怨んだこともありました。
しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは
決して世の中を呪いません。人を恨みません。
天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。
この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。
「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。
俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」
シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、
いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。
今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、
それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。
天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。
昭和63年9月、昭和天皇が病床につかれると、
全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年前の御巡幸で昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。
昭和天皇は病床で
「もう、だめか」
と言われた。
医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが、実は
「沖縄訪問はもうだめか」
と問われたのである。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、
今上陛下によって平成5年に果たされた。
<(_ _)> (-人-) <(_ _)>
珈琲を吹かなくなりますた。w
でも、赤面はしますね。あはあは。
ご紹介頂いてる皆さん、どうもありがとう。<(_ _)>
拡散拡散♪
先日、【日本の底力】さんとこのLinkから
久しぶりにJOGさんの記事に嵌ってしまって。
鬱陶しい話しばかりが続いたので、お清めに先帝のお話しを。
▽
復興へ 3万3千キロのご巡幸
1.石のひとつでも投げられりゃあいいんだ
「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、
旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを
日本人に知らしめてやる必要がある。
神さまじゃなくて人間だ、ということをね。
それが生きた民主主義の教育というものだよ。」
昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、
占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。
しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものだった。
昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。
行程は3万3千キロ、総日数165日。
各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。
イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、
天皇の声望はほとんど衰えていない。
各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。
何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。
イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、
長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。
それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。」
昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、
敗戦直後、昭和20年10月であった。
宮内府次長加藤進氏に次のように指示された。
『この戦争により先祖からの領土を失ひ、
国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。
この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。
しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、
また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。
このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。
ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、
自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、
健康とか何とかはまつたく考へることなくやってほしい。
宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。』
御巡幸の打診を受けた占領軍総司令部は、
冒頭で紹介したような魂胆もあって、許可した。
3.「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」
昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・川崎工場であった。
食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産していたが、空襲で70%の設備が破壊され、
社員は必死で復旧に努めていた。
一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、
「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。
感極まって泣いているものも多かった。
案内していた森社長は、天皇が身近な質問ばかりされるので、
宮中で安楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、
と急に深い親しみを感じた。
二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。
大空襲で一面、焼け野原である。
新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ、
自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こった。
昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、
車道にまでなだれこんだ。
これ以降、巡幸される先々で、このような光景が繰り返された。
8.子らに幸あれ
昭和24年5月18日から6月10日にかけては、
九州全県を巡幸された。
5月22日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通寺には、
40余名の戦災孤児のための洗心寮があった。
孤児たちの中に、位牌を二つ胸に抱きしめていた女の子がいた。
昭和天皇は、その女の子に近づかれて、
「お父さん、お母さん?」
と尋ねられた。
「はい、これは父と母の位牌です」
とはっきり返事をする女の子に、さらに
「どこで?」。
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。
母は引き上げの途中病のためになくなりました。」
天皇は悲しそうな顔で
「お寂しい」
と言われると、女の子は首を横に振って、
「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。
仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にいったら、
きっともう一度会うことができるのです。・・・」
昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫でながら、
「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」
と言われた。数滴の涙が畳の上に落ちた。
「お父さん」、
女の子は小さな声で昭和天皇を呼んだ。
みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ
9.天皇陛下さまを怨んだこともありました
因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。
昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。
「どなたが戦死をされたのか」
「息子でございます。たった一人の息子でございました」
声を詰まらせながら返事をする老婆に
「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、
息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。
・・・天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。
息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」
老婆は泣き伏してしまった。
じっと耳を傾けていた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。
引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。
「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」
とお言葉をかけられた。
一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。
「天皇陛下さまを怨んだこともありました。
しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは
決して世の中を呪いません。人を恨みません。
天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。
この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。
「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。
俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」
シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、
いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。
今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、
それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。
天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。
昭和63年9月、昭和天皇が病床につかれると、
全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年前の御巡幸で昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。
昭和天皇は病床で
「もう、だめか」
と言われた。
医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが、実は
「沖縄訪問はもうだめか」
と問われたのである。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、
今上陛下によって平成5年に果たされた。
<(_ _)> (-人-) <(_ _)>
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